007.オルフェウスの冥府下り

死せる妻を求めて・・・

竪琴の名手である詩人オルフェウスは、太陽神アポロンと詩の女神カリオペの恵子とも、トラキア王の息子ともいわれている。彼は樹木のニンフ、エラリユディケと恋をし、ふたりは結婚した。
しかし蜜月は長くは続かなかった。工ウリユディケが野原で毒蛇に噛まれ、命を落としたのだ。愛する妻を失ったオルフェウスは悲しみにくれた。
「エラリユディケにもう一度会いたい、この手に取り戻したい…。そうだ、死者の国へ行き、妻を連れ戻してこよう」
オルフェウスは意を決して冥府に向かった。途中、多くの障害が立ちふさがったが、すべて乗り越え、彼は冥府の王ハデスの前に立ったのである。そして、妻をどれほど愛しているかを、美しい堅琴の調べに乗せて切々と歌い上げたのだ。これにはハデスも心を動かされた。
「よかろう、ともに地上に戻るがよい。エラリユディケはおまえのあとからついていくが、妻がこの冥府を出るまでは、絶対に振り返ってはならぬ(もし振り返ろうものなら、おまえの妻はまたこの冥府に引き戻されてしまうからな」
オルフェウスは喜びで足が地に着かないほどだった。地上への道をたどりつつも、彼はひと目妻の顔を見たいという誘惑に何度もかられた。だが、必死に我慢して歩きっづけたのである。ところが-地上まであと一歩というときになって、ふとその胸に不安がよぎった。
(エウリユディケは、本当に後ろにいるのか?もしかしてハデス王にだまされているのではないだろうか…?)
不安のあまり、明るい地上に足を踏み入れると同時に、オルフェウスは振り返った。しかし、後から続く工ウリユディケは、まだ完全には冥府から抜けていなかったのだ。
「あなた、なぜ振り向いたの…‥?」
悲痛な叫びを残して、愛する妻は霧のように消え去った。彼は自らの軽率さを悔やんだが、すべては後の祭りだった。絶望のあまり、彼はその場に倒れ込んだ。
その後のオルフェウスは、永遠に失った妻を思って毎日、泣き暮らした。そんな彼をトラキアの多くの女性たちが誘惑しようとしたが、オルフェウスはもはや一一度と女性を愛そうとはしなかった。
失望した女性たちは彼に侮辱されたと激怒し、なんとその体を八つ裂きにして川に投げ込んだのである。オルフェウスの死体は海へと流れ、やがて首と竪琴はレスボス島に流れ着いたという。
それ以降、レスボス島は詩と音楽の聖地となった。そして竪琴は天に上がり、こと座となったという。

006.母神の怒りで荒れ果てる大地

ベルセフォネの誘拐

うららかなシシリア島の野原で、美しい娘ベルセフォネは侍女たちと花を摘んでいた。そのとき、急に大地がまっぶたつに割れ、割れ目から猛々しい黒馬が引く戦車が躍り出た。
戦車を操る男はすばやくベルセフォネを抱え入れると、戦車の向きを変え、割れ目の中に姿を消した。その直後、大地は元のようにぴったりと閉じたのだった。
ベルセフォネは、豊餞の女神デメテルと大神ゼウス姉弟の間に生まれた娘。男もまたデメテルの弟で、冥府の王ハデスだ。実はこの誘拐劇には裏があった。あるときベルセフォネの噂を聞いたハデスは、ゼウスに嫁にしたいと申し入れた。
「わしはかまわないが、母親が許すかどうか。溺愛して育ててきたからな」
「それなら、腕ずくで嫁にするまでよ」
自分と違い女性に緑のないハデスを哀れんでいたゼウスは、この暴挙を黙認したのである。
何も知らないデメテルは娘がいなくなったことを知ると、すぐに松明(たいまつ)に火をつけて娘を探しに出かけた。だが、彼女が9日9晩にわたって地上のすみずみまで探しまわっても見つからない。その悲痛な嘆きに同情したのが、太陽神ヘリオスだった。彼はただひとり真実を見聞きしていたのだ。
「実はハデス様に誘拐されたのです。娘さんを伴侶にしたいと望んだハデス様はゼウス様に申し入れた後、冥府に連れ去ったのです」
デメテルの怒りは尋常ではなかった。彼女は人間に命じて自らの神殿を遣らせ、そこに引きこもってしまった。豊鏡の女神がこの状態のため、木は実をつけず、穀物は芽をふかず、大地は荒れ果てていった。ゼウスはあせった。
「これでは、すべての生き物が死んでしまう」
ゼウスはハデスにベルセフォネを母親のところに返すように命じる。ハデスはしかたなくそれに応じたが、腹の中では策略をめぐらしていた。地上に帰る前に食べるよう、ベルセフォネにザクロを渡したのである。彼女はそれを4粒口にしてし
まった。実は冥府の食べ物を口にした者は、そこの住人とならねばならない決まりがあったのだ。これでもうベルセフォネは、母のもとに戻れない。困りはてたゼウスは苦肉の策を講じた。
「ベルセフォネは食べたザクロの実の数、つまり1年のうちの4か月だけ冥府にとどまり、残りは地上で暮らすことにしよう」
こうして地上は、ベルセフォネがいる間は豊かだが、冥府に下る4か月間は冬となるのである。

005.人々を巨大な災厄が襲った

洪水と人類の再生

旧約聖書の神ヤハウェは、他の神を敬うことを禁じ、その教えに背くとノアの方舟で有名な大洪水を起こして人類を滅ぼそうとした。ギリシアの神々も旧約聖書の神と同様、ときに人間を厳しく罰することがあった。その神のもたらした罰は、パンドラが箱を開けた後にもたらされた。
パンドラはエビメテウスとの間にビュラという娘をもうけたのだが、彼女は長じてプロメテウスの恵子のデウカリオンと結婚した。やがてふたりの間に子が生まれ、人間はその数を増やしていった。だが、それとともに人間は思いあがり、神を敬う心を忘れ、盗みや殺人などが横行するようになったのである。そんな悪行をゼウスが見過ごすはずがない。
「こんな愚かな人間どもは、洪水を起こして滅ぼしてしまおう」
そのころ、人間に火を与えた罪により、カウ力ソス山の山頂につながれていたプロメテウスは、大鷲に肝臓をついばまれる苦行に耐えながらも、ゼウスの災いを予知した。彼は息子を呼んで、次のような助言を与えたのだ。
「方舟を造るがよい。その方舟に生活に必要なものを積み、雨が降ったら乗り込むのだ」
デウカリオンは家に戻るとさっそく方舟を造り、妻とともにその中に逃れた。やがて天が抜けたかのような大雨が降り出し、川は氾濫し、大地は水中に没した。そしてその地にいた人間たちは、ひとり残さず滅んでしまったのである。
雨は9日9晩降りつづけ、その間、方舟は水の上を漂った。周囲を見渡しても、いくつかの高い山の山頂が、わずかに水面に顔を出しているだけ。
10日目の朝に雨がやみ、方舟はパルナッソス山の頂上に漂着した。生きのびたふたりはゼウスに生け贅を捧げ、命を助けられたことを感謝する。
「ゼウス様、われらの命をお救いくださってありがとうございます」
これを知ったゼウスは彼らを許した。
「殊勝な者たちじゃ。よかろう、何か望みがあれば叶えてやろう」
「では、われらに人間たちをお与えください」
「その望み、確かに聞きとどけた。デウカリオンよ、母の骨空屑ごしに投げるがよかろう」
デウカリオンは当惑した。
「母の酉とは……?」
「あなた、母とはきっとあなたの大祖母であるガイア様、すべてを生み出す大地のことよ」
ビュラの示唆にデウカリオンは考えた。
「だとすると、骨とは石のことだろうか?」
そこで彼は石を拾い、扇ごしに投げた。するとそれは人間の男になった。そして、ピユラの投げた石は女になった。
こうしてデウカリオンとビュラが祖となり、人類の再生がなしとげられた。これが今につながる人類の起源である

004.人はなぜ希望を持てるのか?

人類の誕生とパンドラの箱

人間に味方したプロメテウス
ティタン神族のプロメテウスは(先を見る者)という意味を持つその名のとおり、遠い未来まで見通すことのできる賢い神であった。ティタン袖族とオリンボスの神々が争ったときも戦いの先を読み、自族ではなくゼウス側についたので、その功を認められ、オリンボスで暮らしていた。
あるときプロメテウスは、やはりゼウスに許された弟のエビメテウスと語らい、人間を作ることにした。プロメテウスは土をこね人間の男を作った。それを見たエビメテウスは、 「兄上、われらはこれまでに多くの生き物を作ってきた。そして鳥には翼を、獣には毛皮を、貝には貝殻をと、必要なものを与えてやった。だが、人間にはくれてやるものがない」
確かに人間は体を包む温かい毛皮もなく、丸裸で寒さに震えている。
「なるほど、では人間には火をやるとしよう」
火は神々だけが抜える大事なものであった。だが、人間を哀れに思ったプロメテウスは、ゼウスの罰を覚悟で火を与えたのだ。おかげで人間は、寒さに苦しむこともなくなった。さらに農耕や道具作り、医術など、さまざまな生きるための知恵も授けたので、人間はみるみる力をつけた。これを知ったゼウスは腹を立てた。
「プロメテウスめ、わしの許しも得ずに人間を作ったばかりか、余計な知恵までつけおって」

しかし、与えてしまったものは仕方がない。
そこでゼウスは人間に奉仕させようと考えた。
「人間があのように豊かになったのなら、われらに生け贅を差し出させるべきだ。人間と会合をもって神の取り分を決めたい」
そして、ある町で神と人間との会合が行われた。
ゼウス側についたとはいえ、ティタン神族をタルタロスに落としたゼウスを内心恨んでいたプロメFテウスは、人間に味方する決心をした。生け贅の牡牛を切り分けるときに、細工をしたのだ。味のいい肉や内臓は皮に包んでまずそうに見せ、骨は脂で包んでうまそうに見せた。そして、ふたつ並べてゼウスに勧めたのである。
「どうぞ、先にどちらかお選びください」
「よし、わしはこちらにしよう」
ゼウスは一見おいしそうな、たっぶり脂のついた酉を選んだ。まさにプロメテウスの思うつぼだった。後から気づいたゼウスは激怒したが、一度選んだものは神であっても取り消せない。これ以降、人間が動物を生け染にするときは、神々には骨と脂肪を焼いた匂いを捧げ、肉や内臓は人間がとる習慣ができたのだ。
だが、この出来事はゼウスに人間を罰するいい口実を与えてしまった。
「人間は、これから火を使ってはならぬ」
再び寒さに震える人間たちを見て、プロメテウスはこっそり火を盗み出すと、再び人間に与えた。

夜、オリンボスから下界を眺めていたゼウスは、暗い地上にチラチラ輝く赤い火を見つけ激怒した
「プロメテウスめ、これ以上は許さん!」
そして彼を捕らえ、決して切れない鎖でカウカソス山の山頂につないだのだ。
「プロメテウスよ、永遠に苦しむがいい!」
そして、ゼウスが放った大鷲はプロメテウスの腹を食いやぶり、内臓をついばんだ。しかも、その傷は夜の問に治るのだが、朝になるとまたも大賢がやってきて食いちらかすのである。責め苦は終わることなく、長い時を経て、勇者ヘラクレスにより助け出されるその日まで続くのであった。

厄災をもたらした美女パンドラ

ゼウスが罰したのはプロメテウスだけではなかった。その怒りは人間にも向いたのだ。彼は人間の住む地上に災厄をもたらすべく、土で美しい乙女を作らせ、パンドラと名づけた。人類初の女性の誕生である。
パンドラとは(すべてに恵まれた者)という意味である。彼女は神々から多くの贈り物をもらった。アフロディテからは男を引きつける美貌を、アテナからは美しいドレスを、アポロンからは音楽と治療の才能を……。
こうしてパンドラは、エビメテウスの元に送られた。彼は(後から考える者)という名のとおり、やや思慮が不足した男であった。そのため兄から、
「ゼウスからの贈り物は絶対に受けとるな」
という忠告を受けていたにもかかわらず、パンドラと出会い、ひと目で心を奪われてしまった。
「おお、なんと美しいのだ′ パンドラよ。どうぞ、私の妻になっておくれ」
「はい、エビメテウス様。おそばに仕えます」
こうしてふたりは結婚し、エビメテウスの住まいで新婚生活を始めた。あるときパンドラは、部屋に置かれている美しい箱に目をとめた。

「あなた、あれは何なのですか?」
「ああ、あれは兄からの預かりものだ。決して中を見てはいけないといわれているから、おまえも触ってはいけないよ」
だが、禁止されるとよけいに見たくなるものである。好奇心旺盛なバンドーフは我慢ができなくなり、夫が留守のときにこっそ
り箱を手に取った。
「ちょっと見るだけなら、かまわないわよね」
ところがふたを開けたとたん、病気や妬み、憎しみ、盗み::\ありとあらゆる災いが箱から飛び出してきた。プロメテウスが箱に
閉じ込めておいた悪しきものは、あっという間に世界中に広がってしまったのである。自らのしでかしたことに恐怖を覚えたパンドラは、急いでふたを閉めた。そのとき箱の中から声が聞こえた。
「お願いです。私を外に出してください」
「おまえはだれなの?」
「私は希望です」
考え深いプロメテウスは、もしものときのため に希望をも箱の中に入れておいたのだ。これ以降、 人間は多くの厄災にさらされることになるが、希望があるかぎり絶望せずに生きていけるのだった。