015.島々で異なる創世神意

兄弟婚が多い沖縄の神話

沖縄諸島地域は長い間、日本とは別の琉球王国としての歴史を歩んできた。当然ながら、その中で民族の創始などを伝える神話もまた、記紀を代表とする大和の王権の持つ神話とは、いささか異なる。ここでは琉球王国で1603年ごろに書かれた『琉球神道記』から、開聞神話「アマミキヨ・シネリキヨ」を紹介する。
- 昔、人間がまだこの世に存在しなかったとき、太陽神テタコ大主がふと下界を見下ろすと、小さな島が波間を漂っていた。テタコ大主はアマミキヨとシネリキヨという兄妹の神を島に送り、国を造れと命じた。ふたりが降りてみると、島はまだ不完全だった。そこでふたりは天から士と石を運んで山を作り、木々を植えた。
アマミキヨとシネリキヨは、最初の島に家を建てて住んだ。やがて、ふたりは契りを交わしてもいないのに風ではらみ、3人の子どもをなした。
子どもたちのひとりめは国の主の始まり、ふたりめはノロ (巫女) の始まり、3人めは民の始まりとなったという。
さて、この国にはまだ火がなかった。そこでふたりは竜宮に赴いて捜しあて、人間たちに与えた。
やがて人間はどんどん増え、国も完成して守護の女神が現れた。これをキンマモンと呼ぶ。キンマモンは竜宮に住み、毎月御嶽(沖縄の聖域) に現れて託宣をし、神歌を歌う。
ちなみに、琉球王国の正史で1650年に成立した『中山世鑑』 では、シネリキヨは登場せず、アマミク (アマミキヨ) ひとりが島造りを担っている。
なお、本島北部の運天港沖合にある小島に伝わる創世神話は、かなりユニークなものだ。
- 初めに男と女が現れた。ふたりは兄妹で、天から降ってくる餅を食べて、裸のまま何不自由なく暮らしていた。そんなある日、ふと 「もしこの餅が降ってこなくなったら、どうしたらいいだろう?」
という不安がふたりを襲った。それ以来、彼らは餅の備蓄を始めた。ふたりに知悪がついたことが気に入らない神は、餅を降らせるのをやめてしまった。彼らは懸命に謝罪したが、神は許さず、餅が降ってくることは二度となかった。
楽園を失ったふたりは、食物を得るために、種をまき、作物を育てるようになった。これが、人間が汗水たらして、生活のために働くようになった理由なのだ。さらに、ふたりは海で交尾するイルカを見て、男女の道を知った。それ以来、裸でいることも恥ずかしくなり、植物の葉で局所を宥うことを覚えたといわれる。

014.口承文化の傑作

自然を崇めるアイヌの神話

アイヌは「人間」という意味を持ち、北海道を中心とした地に自然とともに生きてきた民族である。彼らが口承で伝えてきたのが、一般に「ユーカラ」と呼ばれる叙事詩だ。ユーカラとされるものの中には、神々が自分のことを語るカムイユーカラ(神謡)や文化神が活躍するオイナ(聖伝)などがある。
これらには豊富な神話の世界が息づいている。
ここでは、いくつかある創世神話のうちのl部を紹介しよう。
- 世界が一面の泥海に覆われていたとき、天から創造神コタン・カラ・カムイが地上を作るために降りてきた。コタン・カラ・カムイが泥海を見ると、1か所だけ固まりかけたところがあった。

そこを引き上げると大地が現れた。コタン・カラ・カムイは、そこに泥をこねた山を置き、指先で傷つけて川を作った。陸地が完成すると、創造神は天に帰ったのである。
ところが大地と思ったのは、実は大昔から泥海に眠っていたアメマスという巨大魚の背中だった。
創造神は、その背中に陸地を作ってしまったのだ。
大きな陸地を背負わされたアメマスは、激怒して暴れ出した。これが地上に地震が起きるようになった理由である。
- 世界は水も泥も区別のつかない混沌とした状態で、陸地はその上を漂っていた。鳥も魚もいない、荒涼とした世界であった。やがて風が吹きはじめ、雲が現れた。雲のその造かな吉岡みに天の神が現れた。天の神は下を見て、何もない地上に多くの生き物を住ませようと、まず1羽のセキレイを作った。
最初の烏となったセキレイは、光の尾を引いて天降った。そして混沌の上に降り立つと、羽ばたきながら水を跳ね散らし、足で泥を踏み固め、尾を上下させて地ならしした。それをくり返すうちに乾いた陸地ができた。セキレイの働きで陸地は高くなり、やがて島となった。島はいくつも造られ、これらをアイヌの人々は浮かぶ島=モシリと呼んだのである。
- 創造神コタン・カラ・カムイは、地上を造った後に足りないものがあることに気づいた。
そこで夜の神に命じて泥人形を造らせた。夜の神は柳の枝を泥人形の中に通して曽にし、頭にはハコベを取って植えた。夜の神が不思議な扇であおぐと、泥人形は次第に乾いて皮膚を作り、頭のハコベはふさふさとした髪になったのである。
最後にほの欲の玉を体に入れたところ、完全な人間になったという。だが、夜の神が造ったのは男だけだった。そこで同様にして、昼の神が女を造り出したのだ。

013.日本神話最大のヒーロー

悲劇の皇子・ヤマトタケル尊

第12代・景行天皇の3番目の子として生まれたのがヤマトタケル尊(日本武尊)だ。幼名はオウス命(小碓命)。ヤマトタケルは日本神話の中で最も有名な悲劇の英雄といえるだろう。
- 父・景行天皇の命令を勘違いしたオウスは、兄の手足をもいで殺してしまった。天皇は息子の荒々しさを恐れ、九州に住むクマソ(熊襲)兄弟の征伐に向かわせて、自分から遠ざけようとした。
オウスは叔母である伊勢神宮の斉宮ヤマトヒメ命(倭姫命)からもらった衣で女装して、クマソの宴席に紛れ込み、兄弟を倒した。このとき彼は敵のクマソタケルからその名をもらい、以降、ヤマトタケルと名乗ることとなった。
なお、クマソタケルとはクマソの地の勇者という意味であり、したがってヤマトタケルは大和=日本の勇者という意味だ。
大和国に凱旋したタケルに、天皇は東国の征伐を命じる。遠征途中、叔母に会った彼は 「父は私が死ねばいいと思っているのか?」 と嘆いた。そんな甥に、ヤマトヒメはもしものときのためにと、草薙剣と火打ち石を渡す。
各地を平定しっつ、駿河国(静岡県)に入ったとき、タケルは土地の豪族にだまされ、火の燃えさかる野に放置された。このときタケルは草薙剣と火打ち石を使って華を払い、九死に一生を得たのである。後に彼がこの豪族一族を全滅させたのはいうまでもない。
次に、タケルは船で安房(千葉県)に行くことにした。ところが途中、海神の怒りにふれ、船が進まなくなった。すると、同行していた妃のひとりオトタチバナヒメ (弟橘比売)が 「私が海に入って神の怒りを鎮めましょう」 と、海に身を投げた。その後、船は動き、一行は安房に渡ることができたのだ。
タケルはさらに乗行して蝦夷、山や川の神々を平定し、帰路についた。尾張国(愛知県)に着いたタケルは、ミヤズヒメ(美夜受比売)と一夜をともにした。そして、彼女のもとに草薙剣を置いたまま、山の神を討ちに出かけた。
だが、素手のタケルは山の神に敗れ、重い病を得た。病身で旅を続け、タケルは都近くの能煩野(三重県亀山市)までたどり着いたが、この地で命を落としてしまう。
訃報が大和に伝わると人々は嘆き悲しみ、タケルのために御陵を造った。すると御陵から彼の魂が1羽の白鳥となって飛び立ち、海の彼方へと消えていったのである。現在、能煩野には「日本武尊御陵」とされる、全長90メートル、高さ9メートルの前方後円墳がある。

012.神武の東征

ヤタガラスに導かれた初代天皇

ホオリ命と卜∃クマヒメの問に生まれたウガヤフキア工ズ命(鵜葺華葺不合命)は、後に叔母にあたるタマヨリヒメ(玉依毘売)を妻とし、4人の子をもうけた。その末子のカムヤマトイワレヒコ命(神倭伊波礼畏古命)こそが、後の日本にとって大きな働きをする神武天皇である。
『日本書紀』 によれば、カムヤマトイワレヒコは「生まれつき明達(賢く)、御心確知(気性がしっかりしている)」であり、15歳で太子となり、アヒラヒメ(阿比良比売)と結婚してタギシミミ命(多芸志実美命)をもうけたという。
彼の最も偉大な事業であった東征の経緯は、次のようなものだ。
- カムヤマトイフレヒコはアマテラス大神の神勅に従い、日向・高千穂の宮殿で葦原中国の統治に務めてきた。45歳のとき、彼は兄のイッセ命(五瀬命)と協議のうえ、天下を平安に治めるのにふさわしい新たな場所を求めて、乗へ向かうことにした。
豊国(大分県)から安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)を経由した一行は、途中から海路を行き、しろかたつ白肩津(現東大阪市) に船を着けた。
だが、そこには強敵のナガスネヒコ (長髄彦)が待ちかまえていた。戦いの末にイッセが重傷を負ったため、一行は白肩津を離れ、紀伊国に向かった。そして、この地でイッセは死んだ。
やがて一行が熊野(一二重県)に着くと、そこにはアマテラスが下された剣と、タカ三ムスビ神に遣わされた道案内のヤタガラス (ハ爬烏)が待っていた。ヤタガラスに導かれ、兄弟の豪族を倒すなどの戦いを経て、カムヤマトイワレヒコ一行は登美(奈良県)に到着した。そこで彼は、兄イッセの仇ナガスネヒコと遭遇したのである。そして、どこからか飛んできた金色のトビに助けられながら、この強敵を倒したのだ。
こうして苦難を重ねつつ、カムヤマトイワレヒコはやっと見つけた、天下を治めるのにふさわしい国、大和(奈良県)を制圧・平定した。そして、橿原に新たな宮殿を築いて、初代神武天白王として即位したのである。
天皇の世はここから始まり、葦原中国も秋津洲(日本の古名)と呼ばれるようになった。
神武天皇はその後、オオモノヌシ神(大物主神)の娘ヒメタタライスケリヨリヒメ (比売多多良伊須気余理比売)を皇后に迎えて3子をもうけた。
その末子が第2代綜靖天皇となる。
神武天皇は在位76年、137歳(『日本書紀』では127歳) で崩御し、その御陵は奈良盆地の畝傍山東北とされている。

011.ニニギ命の息子たち

海幸彦と山幸彦

燃えさかる産屋で生まれたニニギ命とコノハナサクヤヒメの子どもたち。長兄ホデリ命は海幸彦として大小の魚を捕り、末子のホオリ命は山幸彦として大小の獣を獲っていた。
あるときホオリはホデリに、互いの道具を交換して使いたいと頼んだ。ホデリはしぶしぶ承諾した。ところが、ホオリは1匹も釣れなかったばかりか、その釣り針をなくしてしまったのだ。ホデリも獲物を捕らえられず、 「海の幸も山の幸も、やはり自分の道具でなければとれない。もとどおりにしよう」 と、漁具を返すように迫った。ホオリが釣り針をなくしたことを告げると、ホデリはどうあっても返せ、とホオリを責めた。弟は自分の剣から1500本の針を作ったが、兄は拒絶した。
「絶対にあの針でなければだめだ′」
ホオリが海辺で嘆いていると、潮路の神がやってきて嘆きの理由を聞いた。ホオリが話すと、神は小舟を造り、その舟に乗って海の神であるブタツミ神(綿津見神) の宮殿に行くように勧めた。
宮殿でホオリはっタツミの娘卜∃タマヒメ (豊玉畏売) に出会い、恋に落ちた。ワタツ三もホオリがニニギの子であることを悟り、ふたりの結婚を認めた。
ホオリは妻とともに、宮殿で3年間を暮らした。
ある日、彼はここへ来た理由を思い出し、ウクツミに相談した。ウタツミが魚たちに聞いた結果、釣り針が赤鯛の喉に引っかかっていることがわかったのである。目的のものを手に入れて地上に戻るホオリに、ワタツミはふたつの珠を渡した。ひとつは潮満珠、もうひとつは潮乾珠といい、潮の干満を支配できる珠であった。

また、ワタツミは彼に忠告した。
「釣り針を兄上に返すとき『この針は憂鬱の釣り針、焦りの釣り針、貧乏の釣り針、愚かな釣り針』といいながら、後ろ手で渡しなさい。兄上が高地に田を作ったらあなたは低地に、兄上が低地に田を作ったらあなたは高地に田を作りなさい。兄上が攻めてきたら潮満珠で溺れさせ、許しを請うてきたら潮乾珠で助けなさい」
ホオリは、ワタツミのいうとおりに釣り針を返し、田を作った。水を司っているのは海の神ブタツミなので、ホデリの田には水が行きわたらず、兄は次第に貧しくなっていったのである。
そして弟のものを奪おうと、ホデリが攻めてくると、ホオリは潮満珠を使ってこれに対抗した。
また、ホデリが許しを請うと、潮乾珠を使って救ったのである。これを何度かくり返しているうちに、ホデリは降参し、ホオリに頭を下げて謝ったという。

010.夫ニニギ命に貞節を疑われた妻

炎の中で命がけの出産

ニニギ命は、宮殿の近くで美しい娘に出会い、ひと目惚れした。娘は山を司るオオヤマヅミ神(大山積神) の子で、コノハナウクヤヒメ (木花之佐久夜毘売)といった。ニニギは彼女の父に使いをやり、結婚を申し入れた。オオヤマヅミはこれを承諾した。
ところが、ニニギのもとへ嫁いできたのは、コノハナサクヤヒメだけではなかった。なんと姉のイウナガヒメ (石長比売)まで一緒にやってきたのだ。だが、イワナガヒメは醜かったため、ニニギはこれを嫌って親元に送り返し、妹とだけ一夜の契りを結んだのである。
これを知ったオオヤマヅミは嘆いた。
「姉を送ったのは、天なる神の命が巌のように揺るぎないことを願ったため、妹を送ったのは、木の花のように咲き栄えることを願ったため。姉を送り返し、妹だけを要られたということで、天なる神の命は木の花のようにはかなくなってしまうことでしょう」
アマテラスの血筋でありながら、こうした出来事のせいで、以降の天皇はそれほど長命とはいえなくなってしまったのである。
ところで、コノハナサクヤヒメの名前のコノハナとは桜の花の意。日本を象徴する桜の花を名前にもった彼女は、それに恥じない美しい女神であった。彼女は山の神である父のオオヤマヅミから、桜と同様に日本を象徴する富士山を譲られている。
それゆえ富士の浅間神社の祭神は、コノハナサクヤヒメなのだ。
そんなコノハナサクヤヒメにまつわる神話といえば、やはり「火中出産」だろう。
-一夜の契りを結んでしばらく後、コノハナサクヤヒメは夫のニニギに身ごもったことを伝えた。だが、ニニギは自分が子どもの父親かどうか疑った。そして、
「おまえはたった一夜の契りで身ごもったというのか? ならばそれは、私の子ではあるまい。おおかたこの国のどこぞの神が父親だろう」
コノハナサクヤヒメは答えた。
「私の子どもの父親がこの国のどこかの神なら、やすやすと出産することはできないでしょう。でも、あなたのように天の神の子なら、無事に生まれるはずです」
彼女は大きな産屋を作って土で塗りふさぎ、中に閉じこもった。そして、子どもが生まれる間際に火を放ったのだ。炎の中でコノハナサクヤヒメは出産を終えた。このとき生まれたのが、ホデリ命(火照命)、ホスセリ命(火須勢理命)、ホオリ命(火遠理命) の3人の神々である。
コノハナサクヤヒメは子どもの父親が天孫ニニギであることを、身をもって証明したのだ。

009.天津神による征服か?

国譲りと天孫降臨

地上に神々が増え、統治が混乱しているさまを見て、高天原のアマテラス大神は考えた。そしてタカミムスビ神と相談し、自分の子を地上に送って彼らを説得し、治めさせることにした。
だが、最初に送った神は地上の混乱に怯え、逃げ帰ってきた。その後もアマテラスは神々を送り込んだが、いずれも地上の神の指導者であるオオクニヌシ神に懐柔され、説得どころか、安穏と住みついてしまう有様だった。
業を煮やした高天原が最後に送り込んだのが、タケミカヅチ神(建御雷之男神) であった。
- オオクニヌシの宮殿がある出雲国の小浜に着くと、タケミカヅチは剣を抜いて波頭に逆さに立て、その切っ先にあぐらをかいて座った。

そして、オオクニヌシを威嚇したのである。
「われらは高天原の使いだ。この葦原中国(地上)はアマテラス大神の御子が治めることになっている国である。おぬしはこのことをどう考えているのか?」 オオクニヌシは答えた。
「私には答えられぬ。わが子のコトシロヌシ神(事代主神)に聞け」 そこでタケ三力ヅチはコトシロヌシを呼んだ。
すると彼は、父に向かって答えた。
「わかりました。この国を奉りましょう」
息子の言葉を受け、オオクニヌシは自分の宮殿を高天原に匹敵するほどの壮麗なものにしてくれれば、他の神々を説得し、平和のうちに国を譲ると約束したのである。
オオクニヌシ親子が、なぜあっさりと国譲りに同意したのかは不明である。ともあれタケミカヅチは使命を果たし、高天原に引き上げた。
地上の平定を知ったアマテラスは、孫のニニギ命(遜適芸命)を統治者に任命した。
大神の命に従い、ニニギが降ろうとすると、道筋の途中の辻に立ち、上は高天原を下は葦原中国(地上)を明るく照らす神がいる。驚いたアマテラスがアメノウヅメ命にその正体を尋ねさせたところ、天孫を案内するために地上から来た、サルタヒコ神(猿田彦神)とわかった。改めて降臨するニニギに、アマテラスはアメノウヅメら5人の神を随伴させ、さらに知恵の神のオモイカネ神(思金神)ら3人も同行させた。そして彼女はニニギに玉飾りと八爬鏡、そして草薙剣を授けて、
「この鏡を私の御霊と思い、私を祀るのと同様に祀るように」
一行は出発し、幾重もの雲を分けて地上を目ざした。そして、ついに筑紫国の日向の霊峰・高千穂に降り立った。ニニギはこの地に宮殿を築き、住まいとしたのである。