010.ギリシア神話最大の英雄

ヘラクレスの冒険と受難

燃え上がるヘラの嫉妬

ヘラクレスの数奇な運命は、その誕生から始まった。ティリンス王の妻アルクメネを見初めた大神ゼウスは、彼女の夫に姿を変えて思いをとげる。アルクメネは身ごもり、それを知ったゼウスは彼女を祝福した。
「今度生まれるベルセウスの子孫は、人々を支配することになろう」
ベルセウスとは、ゼウスがアルゴス王の娘との問にもうけた恵子で、メドゥーサ退治で知られた英雄である(44ページ参照)。だがこの妊娠を、嫉妬深いゼウスの妻の女神ヘラが知った。そして浮気な夫の鼻をあかすため、同じくべルセウスの血をひくエラリユステウスを1日早く誕生させた。そのため、ゼウスの祝福は彼にもたらされ、ヘラクレスの王となる道は閉ざされたのだ。そして、ヘラの嫉妬によるヘラクレスの受難は、その生涯にわたって続くことになるのである。
彼が生まれると、ヘラは揺りかごに2匹の蛇を放つ。だが、生後間もないこの赤子は、それらを素手で握りつぶした。
成長したヘラクレスはいくつかの武勲をたて、若くして英雄の名声を得ていた。クレオン王の娘と結婚し、3人の子どもにも恵まれた。だが、その幸せが許せないヘラは、彼に狂気を吹き込んだのである。そのあげく、ヘラクレスはわが子を殺してしまった。正気に戻ったヘラクレスは自らを責め、罪を償うための神託を得た。
「おまえは従兄弟の工ウリユステウスのもとに行き、彼に奉仕せよ」
ヘラクレスより1日早く生まれたことで王となっていた工ウリユステウスは、この神託を受け、12の難行をヘラクレスに命じるのである。

人間には達成不可能なほの難行

1番目はネメアの谷に棲む刃物を通さない皮をもつ獅子退治。ヘラクレスは棍棒で殴って獅子を悶絶させ、いとも簡単に絞め殺す。以後、彼はその獅子の皮をはいで頭からかぶり、鎧とした。
次はレルネの沼に棲む9頭の水蛇ヒユドラ退治その頭のひとつは不死で、残りは切っても再び生えてくる。彼は甥の協力を得て8つの首を切った後、即座にその切り口を焼いて新しい首が生えるのを防いだ。さらに不死の頭は地下に埋め、上に大岩を置いた。そして、その血に自分の矢を浸し毒矢を作ったのである。
3番目は黄金の角と青銅のひずめをもつケリユネイアの牝鹿の捕獲。彼は鹿を1年近く追い回した後に捕らえる。
4番目のエリユマントスの凶暴な野猪も、見事生け捕りにした。
5番目は3000頭の午を飼いながら、30年間も掃除していないアウゲイアス王の家畜小屋掃除。ヘラクレスは小屋にふたつの川の水を引き入れ、一挙に汚物を流した。6番目は怪鳥ステユンパデス退治。くちばしも爪も青銅でできたこの鳥を、女神アテナに贈られた音鋼の太鼓を叩いて驚かせ、飛び立ったところを毒矢で射殺した。
7番目にクレタの暴れ牛を生け捕り、8番目のディオメデスの人食い馬も捕らえた。9番目のアマゾンの女王の帯も手に入れたが、ヘラの策略で乱闘となり心ならずも女王を殺してしまう。10番目は3頭3身の怪物グリユオンが飼う牛の奪取。ヘラクレスは、この難行も達成した。
11番目はヘスペリデスの園から黄金のリンゴを盗み出すこと。ヘラクレスはまず、大鷲に内臓をついばまれるという責め苦を受けていたプロメテウスを解放して助言を得た。その助言どおりの場所で、ティタン神族のアトラスが天空を支えてい
た。アトラスはいった。
「人間のおまえは、ヘスペリデスの園に入ることはできまい。代わりにわしが取ってくるから、それまで天空を支えておいてくれ」
そしてアトラスは、天空をヘラクレスの肩に移し、ヘスペリデスの国からリンゴを持ち帰った。
だが彼は、再び天空を担ぐことに嫌気がさしており、このままヘラクレスに任せることを考えていた。そこで彼にこういった。
「リンゴはわしが代わりに届けてやろう」
それに乗るまいとヘラクレスは一計を案じた。
「わかりました。では、しつかり支えるにはどう持てばいいか、見本を見せてください」
承知したアトラスが天空をその肩に移したところで、ヘラクレスはリンゴを持って立ち去った。アトラスは自由になれる唯一の機会を、こうして逸したのである。

妻の疑心が招いた死

最後の難行は冥府の番犬ケルベロスを連れてくることだった。ケルベロスは頭が3つ、蛇でできたたてがみ、竜の尾を持つ怪物である。ヘラクレスは冥府の王ハデスの許可を得て、素手でこれを生け捕りにする。
こうして12の難行を達成し、へ一フクレスの英雄としての名声は、より上がった。ヘラの憎しみはさらに増し、彼の受難は続く。
あるときヘラクレスは、妻デイアネイラを伴って旅に出た。ケンタウロス族のネッソスは彼らに近づき、隙を見て妻を犯そうとする。ヘラクレスは彼を毒矢で射殺するが、瀕死のネッソスはデイアネイラにささやく。
「おまえの夫が別の女に心を移しそうなとき、私の血を使うとよい。愛が戻るぞ」
その後、ヘラクレスはある国を攻め、王女を捕虜として連れ帰ることにした一これを知った妻は夫の変が王女に移るのを恐れ、ネッソスの血を塗った服を夫のもとに送る。
何も知らないヘラクレスが服を身につけると、血に含まれていたヒユドラの毒が体に回り、彼の肉をただれさせた。その様子を陰から見ていたデイアネイラは、絶望のあまり自殺した。苦しみもだえるへ一フクレスは、部下に命じて薪を積ませ、その上に身を横たえ、炎に包まれて死ぬ。
ヘラクレスは、父ゼウスによって天に上げられる。ここでやっとヘラの憎しみもおさまり、ヘラクレスは彼女と和解する。そしてヘラの娘で青春の女神へベと結婚して、オリンボスの神々のひとりとなったという。

009.脱出不能の迷宮に棲む怪物

テセウスのミノタウロス退治

アテナイ王アイゲウスはトロイゼンを訪れたとき、王女アイトラを見初めた。そしてふたりの間に恵子テセウスが生まれる。帰国する際、アイゲウスは大岩の下に剣とサンダルを隠し、アイトラに告げた。
「息子が成長したら、それを持ってアテナイに来させよ。私は喜んでわが子として認めよう」
時が流れ、這しい若者に成長したテセウスは、怪力を発揮して約束の物を手に入れ、父の国を目指した。途中、山賊たちを退治し名を上げ、アテナイに入る。ところが、王妃である魔女メディアは王に先駆けてテセウスの正体を知り、わが子が王座に就くのに邪魔になるとして、彼の毒殺を謀る。だがそのとき、テセウスの腰にある剣にアイゲウスが目をとめて叫んだ。
「その剣は……! そなたは息子か?」
その拍子に毒杯は倒れ、企みが露見したメディアは行方をくらました。こうしてテセウスは、名実ともにアテナイの後継者となったのである。
当時、アテナイは問題を抱えていた。クレタ島の三三ノスに9年に一度、若い男女を貢ぎ物として差し出さねばならなかったのだ。彼らは迷宮に送り込まれ、牛の頭に人間の体をもつ怪物ミノタウロスの餌食となっていた。
テセウスは自ら志願して仲間に加わった。恵子の決心が揺るがないと知り、王は約束させた。
「死地に赴く船は、黒い帆を張りクレタ島に向かう。もし無事に帰還できたら、白い帆に変えよ」

クレタ島に着いた一行の中にりりしい青年の姿を見たミノス王の娘アリアドネは、一瞬にして心を奪われた。彼女は青年を助けたいと思い、迷宮を造った建築家から抜け出る手段を聞き出す。
「テセウス様、私を妻にしてくださるなら、迷宮からの脱出方法をお教えしましょう」
彼が求愛を受け入れると、王女は麻糸の束を渡し、これを迷宮の門に結びつけ、ほぐしながら進むように教えた。迷宮の奥でミノタウロスに遭遇したテセウスは、格闘のすえこれを退治する。糸をたぐって門に戻ってきた一行は、ミノス王の追っ手をかわし、アリアドネとともに船に乗り、アテナイに向けて帆を上げた。
途中、船がある島に立ち寄ったとき、ふたりは別れ別れになってしまう。彼女を置き去りにしたとする説と、嵐で船が戻れなかったとする説があるが、島に残されたアリアドネはその後、酒神ディオニュソスに救われ結婚する。
船はアテナイに近づいたが、テセウスは父との約束を忘れていた。遠くに黒い帆を見た王は絶望し、海に身を投げて死んでしまう。彼は悲しみのうちに父を埋葬し、その跡を継ぎアテナイ王となったのである。

008.くり返される骨肉の争い

呪われたアトレウス一族

神々を冒漬したタンタロス

長きにわたってオリンボスの神々に呪われつづけた家系、それがアトレウス一族である。その血で血で洗う凄惨な歴史は、タンタロスに始まる。
ゼウスとニンフの問の子、フリユギア王タンタロスは、よく捧げ物をしていたので、神々に好意を持たれていた。神でもないのにオリンボスの饗宴に招かれたばかりか、神の食べ物や飲み物を口にすることを許され、不死の休まで得ていた。
寵愛を受けて図にのったタンタロスは、オリンボスの食べ物を人間界に持ち込むなど、神々を軽んじはじめた。そして、ついに恐ろしいことを思いついたのである。
「そうだ、神々に人肉を食べさせてみよう。はたして獣の肉との区別がつくかどうか…?」
そして、日ごろから反抗的な恵子ベロプスを殺してその肉を煮込み、神々に供したのだ。
「うっ、なんだ、この肉は!」
さすがにゼウスをはじめとする神々は肉の正体に気づき、すぐ吐き出したが、娘をハデスに誘拐され自失状態にあったデメテルだけは、口にした肉を飲み込んでしまった。
その冒漬的な行為に激怒した神々は、タンタロスを冥府のさらに深奥部にあるタルタロスに落とした。そして、首まで水に浸ったタンタロスが沼の水を飲もうとすると水が引き、頭上の枝になる果物を取ろうとするとそれが遠ざかる、という罰を与えた。不死であるタンクロスは、永遠に渇きと飢えに苦しむことになったのだ。
なお、ベロブスを憐れに思った神々は彼を復活させ、デメテルは自分が飲み込んだ肩の肉の代わりに、象牙の肩を与えたのだった。

血に染まった鵬族の系譜

時が流れ、ベロブスはピサ王オイノマオスの娘ヒッポタメイアに求婚した。すると王は彼に戦車競走を持ちかけた。自分に勝てば王女との結婚を許すというのだ。戦いの神から贈られた馬のおかげで、王は戦車競走では不敗であった。そこでベロブスを愛する王女は御者のミュルティロスを抱き込み、父の戦車に細工をさせた。競走のさなかに戦車は転覆し、すべてを悟った王は呪いの言葉を吐いて、息絶えた。
「ミュルティロスは、ベロブスの手にかかって死ぬがよい」
この後、ミュルティロスは王女への邪恋をとげようとしてベロブスに殺される。それはまさしく王の呪いどおりの死に方だった。だが、ミュルティロスもまた、その死に際にべロブスとその子孫を呪誼し、彼の父であるヘルメスもベロブス一族に呪いをかけたのだ。
ベロブスはヒッポタメイアと結婚し王になり、アトレウスとテユエステスという双子をもうけた。

しかし、父が異母兄弟を溺愛するのを妬んだ双子はこれを殺害し、その罪でピサを追放される。
ミュケナイにやってきた双子は同国の王座を争い、その結果、兄アトレウスが勝利した。しかし、弟テユエステスが自分の妻と密通していたと知るや、アトレウスは弟の息子を殺し、その肉を料理してテユエステスに食べさせたのである。すべてを知った弟は、兄を呪いつつ逃亡した。仇を討つために、神託によりテユエステスは実の娘ベロピアを犯して恵子アイギストスを得た。だが、近親相姦の罪を嫌ったベロピアは、幼い息子を連れてミュケナイに逃れ、アトレウスの妻になる。アイギストスは王を実の父と信じて成長するのである。
時は流れ、アトレウスは他国にいるテユエステスを捕らえて連行し、アイギストスに命じた。
「この男をおまえの剣で斬れ!」
アイギストスは剣を構えたが、テユエステスが実父であることに気づき、剣の向きを変えアトレウスを突き刺した。こうして神託どおり仇は討たれ、テユエステスが王になりかわったのである。

終止符が打たれた血の連鎖

こうなるとおさまらないのは、王位を継ぐはずだったアトレウスの恵子アガメムノンだ。彼はテユエステスのもうひとりの息子タンタロスをその幼子とともに殺害。そしてタンタロスの妻だったスパルタ王女クリユタイムネストラと強引に結婚した。次にテユエステスとアイギストス父子を追放し、ミュケナイの王位を勝ちとるのである。
だが、アガメムノンとクリユタイムネストラの夫妻もまた現われていた。やがてトロイア戦争が勃発。ギリシア遠征軍の総大将となったアガメムノンは、出陣の際に順風を祈ってふたりの間にできた娘を生け資として神に捧げたのだ。娘を失った王妃は夫を憎んだ。
「あの男は実の娘を死なせて平然としている。そればかりか、私の最初の夫と幼い恵子もあの男に殺された……。いつか復讐してやる」
夫が出陣すると、彼女はアイギストスと密通した。そして戦いが終わってアガメムノンが凱旋したその日、王妃は夫に首回りと袖口を縫い合わせた下着を渡した。
「この下着は頭も腕も通らないぞー」
もがくアガメムノンをアイギストスが刺し殺した。しかしこのふたりもまた、アガメムノンの恵子オレステスによって殺されてしまうのである。
オレステスは事前にアポロンより母殺しの許可を得ていた。だが、他の神はこれを許さなかった。彼は母殺しの大罪を犯した者として女神に追いまわされ、錯乱状態に陥る。そして放浪の末にアテナイにたどりつき、裁判で無罪を勝ちとった。しかし狂気がもたらす彼の心の闇は晴れなかった。
そんな彼にアポロンが命じた。
「タウロスにあるアルテミスの聖像をアテナイに持ち帰れば、すべての神に許されるだろう」
タウロスを訪れたオレステスは、聖像を盗もうとして発見され、捕らえられた。そして神への生け染にされかけたところを、姉イブィゲネイアに救出された。オレステスは姉の助けを借りて聖像を盗み出して持ち帰り、ようやく苦しみから解放された。タンタロスに始まった神々の呪いは、ここに終止符が打たれたのだ。